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大同4年(西暦809年)、当地で幾夜にもおよぶ雷鳴と稲光の中に、地元の郷士の兵部卿という人がその様子を伺ったところ、楢の大木のこずえに白鹿にまたがった白髪の老人が忽然とあらわれ「われは三笠山に住める翁ぞ」と告げて、南東方向に飛び去りました。
これこそまさしく春日大明神に違いないとして、宮殿を造営したのが春日神社の始まりです。 |
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県無形文化財「草地おどり」 |
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以来、豊後守護職である大友氏により格別の崇敬を受けて繁栄しましたが、宗麟の虐政により4殿並立の本殿ほか、境内外がことごとく焼き払われてしまいました。しかしながら氏子の総力で、宝殿一宇を再建したのちは、細川・小笠原・島原松平等の各藩主の庇護により社勢を取り戻して明治維新を迎えました。
明治6年に郷社、そして同39年には神饌幣帛料供進神社、また大分県知事から鎮座地をあらためて「西国東郡草地村三笠山」という、奈良のご本社と同様の名称使用を許され、まさに大分県最古の春日社として、内外の崇敬をうけて今日に至ります。 |
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近年では、過疎高齢化の進む当地方ですが、平成14年に氏子崇敬者を挙げて「平成の大改修事業」として、拝殿ほか3棟の古代本瓦によるお屋根の葺き替え、神幸殿(お旅所)ならびに神輿蔵の建て替え、さらに本神輿の新調や「三笠山春日神社誌」の刊行などを行いました。
なお、当社の境内は三笠山のほかに、秋季大祭でお神輿が一泊される尾園の神幸殿、豊後高田市の史跡である呉崎の潮汲み斎場と、約7,000坪を有しており、名実ともに西国東を代表する神社のひとつです。 |
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