由緒 千二百年祭 有形文化財 恒例祭 宝物と境内寸描
はじめに
今回の登録について
写真
 
図面
平成22年10月に熊本大学日本建築史研究室により調査が行われ、「三笠山春日神社 建造物調査報告書」(平成23年1月)が作成されました。そしてこの報告書が文化庁に提出されて文化審議会にかけられたのです。
全ての物件に対して詳細な報告がなされていますが、この中から一部図面及び本殿と拝殿に関する解説を抜粋して本ページに掲載致します。
春日神社・余興舞台位置図 (地図) @ A 【PDF: 839KB】
求積図及び面積表 【PDF: 106KB】
春日神社配置図 【PDF: 78KB】
余興舞台・御旅所配置図 【PDF: 24KB】
本殿(神殿)平面図 (解説文添付) 【PDF: 27KB】
拝殿申殿平面 (拝殿の解説文添付) 【PDF: 16KB】
三間社、切妻造、一間向拝付、銅板葺
 基壇、切石積2段積、切石積亀腹上に身舎柱丸柱をたて、足固貫・内法貫・頭貫・切目長押・内法長押で固め、台輪を置く。組物は、雲状尾垂木付き二手先、中備は、蟇股状の外形をもつ大瓶束笈形付きとする。妻飾は、二重虹梁大瓶束笈形付きで、大瓶束には胡麻殻を施し、結綿は獅噛とする。これも笈形付き大瓶束を蟇股のように使用する方法である。二段の虹梁の間には拳鼻付きの三ツ斗を三基置く。
 身舎の四周に切目縁を廻らす。基壇上に石製礎盤を置いて、縁束をたて支持するが、縁束から左右に伸ばした挿肘木も縁葛を支える。
 向拝柱は、基壇上にのせたやや背の高い礎石上に木製礎盤を置いて立てた、几帳面付きの角柱である。水引虹梁は円弧状で、身舎柱と海老虹梁でつなぐ。木鼻は正面が獅子、側面が象である。組物は連三ツ斗で、手挟を入れる。垂木は身舎の二軒目を打越し、正面ではさらに一軒を加えて二軒とする。
 身舎正面3間には、半蔀、両側面の前方1間には、両折桟唐戸とし、これら以外は横板羽目とする。半蔀は、現在内側に跳ね上げる形式であるが、本来は外側にあげる形式であったと考えられる。
 総欅造で、部材木口を白く塗るほかは素木である。
 内部は、前方に畳4枚を敷き、後方は神棚とする。神棚前方に中柱2本を立て、中央間を一段高くつくる。ただし、中柱および中央の棚部分は後の改造で、元は中央部分も左右と同高であった。
 正面3間側面2間で、前方は畳を4枚敷とし、後方は、側柱筋よりやや後方に中柱2本を立て、その間にできる中央間に扉を付けた神棚とする。左右は正面扉もない板床風神棚とする。
 天井は、漆喰で塗り廻した折上天井であるが、これは、平成12年からの大改修によるものと思われる。旧天井は、現在の天井の上に残されており、これは鏡天井である。
 『三笠山 春日神社誌』平成15年(以下、『神社誌』とする)では、文化7年(1810)「改築」と言われるが、確かな根拠は見いだせていない。しかしながら、欅の素木造であることや、笈形の形状や絵様などは、19世紀前半の特徴をよく示しており、その頃の建物と考えてよいと思われる。
 『神社誌』によれば、明治7年(1874)には、屋根の銅瓦屋根葺替があり(棟札)、大正2年(1913)にも屋根替があったという。
 また、当社では平成12年から14年にかけて平成の大改修が行われ、社殿の各建物の修理が実施されている。神殿については、『三笠山春日神社 御鎮座壱阡貳百年祭 記念報告誌』春日神社千二百年祭実行委員会 平成22年(以下、『記念報告誌』とする)の「本殿申殿の改修工事」(41頁)によれば、「一番のゆがみが見られた御神座背面のけやき板材の取り換えを行うと共に、側面のものについては矯正をおこなった。そして内面全体の壁紙を張り替えると共に、畳の敷き替えをおこない、壁代などの神具の全てを入れ替えた。さらに外部の化粧として、六葉金具の取り付けや木口の塗装、そして亀腹(基段)部分の漆喰取り換えを実施している。」とある。現在の天井については明記されていないが、このときの工事によるものであろう。
 中央間に対する脇間の寸法の割合が小さい垂直性が強調された立面で、高田市内の若宮神社神殿とも共通しており、この地方の同時代の神殿の特色とみられる。
桁行9間、梁間2間、入母屋造、本瓦葺、正面中央間に1間入母屋造向拝付
 後方の神殿の建つ一段高い敷地と高さを揃えるように、積まれた切石3段の石垣上に、石製土台を置いて、角柱を立てる。正面および背面の中央間を除く柱間は、窓台・まぐさを渡して、開放窓とする。上は白土壁として桁を載せる。正面では、小壁の飛貫上に蟇股を置く。側面は半間毎に柱を立て土壁とする。桁行の正面および背面の中央間には、水引虹梁を架け、その下は開放にし、上に蟇股を置く。内部は板敷で、天井は格天井とし、天井下に左右側面から3間の位置に大虹梁を架ける。妻飾は縦板張、目板付きである。一軒、本瓦葺。
 向拝は、礎石上に石製礎盤を置いて、几帳面付きの角柱を立てる。水引虹梁を架けて、正面に獅子、側面に獏の木鼻を付ける。身舎柱とは、水平に繋梁を架ける。組物は、出三ツ斗である。妻の内部は菱格子とする。
 この地方では、拝殿を「回廊」と呼称することが多い。この拝殿には棟札が残されており、大正10年(1921)「廻廊建築」の棟札があって、この拝殿は大正10年の建築とみられる。ただし、正面の蟇股は、彩色があること、「天人」や「二十四孝」を題材とすることなどから江戸時代にまで遡る、おそらく前身拝殿に取り付けられていたものと思われる。
 回廊とも呼称されることの多かった、横長で開放的な拝殿もまた、宇佐神宮の影響を濃厚に示す建築として重要である。